岩手県立美術館

Vol.91 逃避行/就職前夜

学芸員 下岡史奈

 2019.11

旅に出ることが好きです。

知らないことを、知るのが好きなのです。

元来の飽き性で、なかなか一つの場所に、ぢっとできないことが理由かもしれません。

いまでも、できるだけ知らない場所に行ってみたいし、多くの場所に住んでみたいと願っています。

 


旅はまた、出会いという産物を生みます。

その時は取るに足らない些細なことでも、後の何かにつながる出会いがある。

旅を繰り返すうちに、そんな瞬間に、時たま出くわすことがあります。

 

今回はかなり私的なお話で恐縮ですが、旅と私と美術館について、少しばかりお付き合いいただければ幸いです。

 

岩手県立美術館をはじめて訪れたのは、おととしの9月のことです。当時私は修士論文に行き詰っており、卒業もあわや、とかなり追い詰められた状況でした。そんな崖っぷち学生の最後の夏休みに、もちろん遠出するような時間はない(というかしてはならない)のですが、私は何かにすがるような心地で、北を目指しました。

 

岩手を目的地とした理由は、今となってはよく覚えていません。そもそも、「どこか」は旅の目的ではなかったのです。夏空を眺めながら、長い間電車に揺られていたいと考え、東北本線で北へ北へと向かうことに決めました。青春18きっぷを手に、逃げるような思いで、上野駅から宇都宮行の電車へ。何度も何度も乗り換えを繰返し、北へ北へ。窓の外の風景を、ただぼんやりと眺めていました。東北の晩夏の光が、途方に暮れた午後に優しかったことを、おぼろげながらに記憶しています。

 

実は当初の旅程に、盛岡は含まれていませんでした。牛タンを食し、ゲストハウスで観光客の一団に怯え、ワンダーランドの如き童話村に慄き、何となく夕焼けの畦道を歩く(←一人で。不審者?)・・・。いよいよ帰らねば、と決めた夜、次の日、ほんの少しだけ時間があまる、ということに気づき、ほんとうに思いつきで、美術館に足を向けることを決めました。逃避行の罪悪感から、この旅では無意識的にか美術館は避けていたのですが、専攻する近代美術史の優品を展示する、常設展に興味が湧いたのです。

 

正直に申し上げますと、はじめて美術館を訪れたときの印象は、あまり明確には覚えていません。ただ、当時のカメラロールを遡って見てみると、よく晴れた中央公園の空を、熱心に撮影した様子が窺えます。「帰らなければ」と強く思うこと、青空から降り注ぐ眩しい光、広大な公園、遠くに雲をかける岩手山、地面からにょっきり生えた鉄塔、そして石の城のような美術館。散文的なイメージとともに、当時の記憶が思い出されます。《序説》のポストカードを一枚買って帰りました。自室の壁のポストカード・コレクションのなかに、帰京後それはひっそりと加えられました。

 

逃避行の後、やっとの思いで学業を修了し、それから一年が経ちました。私は全国各地の学芸員試験を受け続けていました。9月、何かの因果なのでしょうか。私は再び岩手の地を踏むことになります。今度は学芸員として、美術館に戻ってきたのです。「帰らなければ」と強く思うこと、青空から降り注ぐ眩しい光、広大な公園、遠くに雲をかける岩手山、地面からにょっきり生えた鉄塔、そして石の城のような美術館。不思議なご縁を感じ得ずにはいられませんでした。

 

その時は取るに足らない些細なことでも、後の何かにつながる出会いがある。

 

《序説》のポストカードは、今でも壁際に飾ってあります。

地面からにょっきり生えた鉄塔

 

岩手県立美術館

所在地
〒020-0866
岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
電話
019-658-1711
開館時間
9:30〜18:00(入館は17:30まで)
休館日
月曜日(ただし月曜日が祝日、振替休日の場合は開館し、直後の平日に休館)
年末年始(12月29日から1月3日まで)