岩手県立美術館

vol.62 戦争と美術 当館作品を観て思ったこと

副館長 高橋友三 
2015.8 

 今年は戦後70年目の節目の年である。終戦の月である8月は例年にも増して太平洋戦争を見つめ平和を考えるテレビや新聞の報道が多かった。私は以前からなぜあれほどに悲惨な太平洋戦争が起こったのか、その社会背景、戦地や戦時下の社会の状況、終戦処理などを知りたく、これまでも多くの文献や映像に触れたり、従軍した方の話しを聞いたりしてきた。
 これまでは戦争と美術という観点から太平洋戦争を眺めたことはなかったが、昨年度来当館に勤務する中で保管する戦争画や戦時中の東京の街の様子を描いた作品、戦後シベリア抑留を経験した作家の作品などを観ることができた。さらに書庫には当時の戦争画を編集した画集や関係する文献もあり、それらもひと通り見ることによって戦争と美術といった全く新たな視角から戦争を見てみることができた。そうした折にフロムスタッフの執筆当番が回ってきたことから、今回は戦争画や戦争の影を感じさせる当館の作品等を観ての感想などを述べてみたい。(なお、本文は美術館の公的な解説ではなくあくまで私自身の感想である。)
【戦争画とは】
 戦争画とは戦争を題材として描かれた記録絵画で、軍の宣伝や戦意高揚に利用された。陸海軍省から派遣された従軍画家によって戦闘場面や戦士の出征、凱旋などの戦争諸場面が描かれた。従軍画家は銃弾が飛び交うような前線に行くことはなく、後方にいて写真や兵士の話しなどをもとに創作することが多かった模様である。戦意高揚が目的であるから、日本兵が傷ついている状況や、日本の戦闘機が撃墜されているような場面を描くことは制限されていた。従軍画家には単に絵画的に描くのではなく、国民感情と戦意意識を高揚するよう戦争の意義と本質を十分認識して描くようにと強要されていた。
 その作品は、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」といった名称の展覧会で全国巡回され、多くの入場者あり、写真や映像などで戦地の様子を知る機会が少なかった時代、戦争画は戦意高揚に大きな役割を果たした模様である。
 戦後、1946年にGHQに153点の戦争記録画が接収されたが、1970年に無期貸与というかたちで日本に返還され、現在東京国立近代美術館に保管され、展示もされている。また、当時接収されなかった作品は、各地の美術館や個人が所蔵している。
【当館の戦争画】
 当館ではご覧の作品を寄託のかたちで保管している。従軍画家として派遣された盛岡出身の橋本八百二(1903〜1979)によるニューギニア戦を描いた作品である。ニューギニア戦といえば物資等の補給能力がなく過酷な消耗戦を強いられる状況の中、連合軍の圧倒的な兵力の前に多くの犠牲を出した戦いだったとのことである。この作品は暗闇の密林の中を進撃する兵士を描いた大きな作品で、最前線で必死に戦う兵士の様子が圧倒的な迫力と臨場感で伝わってくる。

橋本八百二  「ニューギニア作戦」1944年 油彩

 当時の召集対象年齢にあった画家には、従軍画家となった画家のほか、召集されなかった画家、外地に従軍し戦後復員した画家、従軍したが復員叶わず外地で戦死した画家もいる。当館にはそうした作家による戦時下の社会状況などが感じられるような作品もあり、これらの作品も取り上げてみたい。
【戦時下の東京の風景画】
 聴覚の障がいなどから召集されなかった松本竣介(1912〜1948)は、戦時中東京の街を描いている。
 1942年(昭和17年)に描かれた「議事堂のある風景」はご覧のとおり、色のない街と寒々とした空が暗い色調で描かれている。絵具の乏しかったという状況下で描かれた作品ということもあるが、戦時中の暗さや寂寥感、無常感が伝わってくる作品である。

松本竣介  「議事堂のある風景」1942年

【シベリア抑留経験が感じられる作品】
 盛岡出身の画家・澤田哲郎(1919〜1986)は、1945年(昭和20年)召集され、戦後シベリア抑留を経験し、1947年に帰還している。戦後はシベリア抑留時代の生活をモチーフとした作品が多くみられる。ご覧の作品はシベリア抑留から15年経った時期に描かれた「風雪」という作品である。画家本人の意図は分からないが観ていると私には、雪、風が吹き荒れる酷寒のシベリアの大地、過酷な労働、極限ともいえる食住条件、生きて帰還できなかった仲間への思いなどの様々な情感が色彩や荒々しい筆の動きなどから感じられる。

澤田哲郎  「風雪」1962年

【復員叶わず外地で戦病死した画家の作品】
 靉光(1907〜1946)は、将来を嘱望されつつも応召されて大陸に渡り、終戦後復員叶わず39歳の若さで上海郊外で戦病死した画家である。特異な画風で知られるが、生前自身で多くの作品を破棄した上、出身地広島に残された作品も戦災で失われたことから、現存するその数は非常に少ない。当館では麻生三郎らとともに松本竣介と交流のあった作家の作品ということでご覧の油彩画「花・変様」を所蔵している。
 この作品、色使いも独特なうえに、葉の中に人間の目があったり、異様に曲がりくねった茎が虫に変容して飛んでいる様など造形的にも奇抜であり、不気味な感じもする独特な雰囲気をもった作品である。
 靉光の場合、戦時下の状況から当局より戦争画を描くことを迫られたが、『わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。』と言っていたとのことで、従軍画家の道には進まなかったようである。復員かなって創作を再開していたならどのような作品を残しただろうと思うと、はなはだ残念である。

靉光  「花・変様」1941年

【これら作品を鑑賞して】
 その迫力や臨場感からみて戦争画はプロパガンダの宣伝媒体として大きな威力を発揮しただろうと思われる。戦時中の展覧会には多くの観覧者があった模様である。それは美術を鑑賞するというよりは、戦場に行った息子あるいは夫、兄弟、友人などがどのような状況で戦っているのか、新聞やラジオなどでは今一つ分からない臨場感を得るために足を運んだのだろうと思う。絵画の場合、全部が写ってしまう写真とは違って描きたい部分を抽出し、しかも創作を加えて表現することができる。こうした絵画の特性が従軍画家の高い技量と相まって制作された戦争画は戦意高揚にかなり貢献したものと推察される。1点ではあるが実際の作品を見てこのくらいの出来栄えであれば、おそらく戦争画に心を動かされて兵隊を志願したような若者もいたのではとも思われた。改めて絵のもつ影響力の大きさを感じさせられた次第である。
 戦時中の画家は軍部からの戦争協力への圧力の中、戦争と美術についてそれぞれの立ち位置を取って絵画に向き合っていたことが見えてくる。画家といえば美を通じて心の癒しや安らぎ、喜び、慈しみ、祈りなどおよそ戦争とは対極にあるものを追求し、人々に感動を与える芸術家の一人である。そう思うと従軍画家となった方々は、芸術表現という画家本来の目的と軍部の意に沿うように描かねばならない戦争画というものを自分の中でどのように折り合いをつけながら描き続けていただろうかということにも思いが及ぶ。描きたくないが要請ゆえに描いた方、自己表現を追究する活躍の場を得たとの思いで描いた方、戦後に責任追及されるのではと感じながら描き続けた方など様々な思いを持ちながら描いていたようだ。従軍画家の戦争画に向かう気持ちは様々であっても、作品は形として残りプロパガンダの一翼を担ったという事実は消えないという点では同じである。従軍画家の方々においては戦後の表現活動にそのことが多かれ少なかれ影響しているのではとも推察される。

岩手県立美術館

所在地
〒020-0866
岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
電話
019-658-1711
開館時間
9:30〜18:00(入館は17:30まで)
休館日
月曜日(ただし月曜日が祝日、振替休日の場合は開館し、直後の平日に休館)
年末年始(12月29日から1月3日まで)