vol.50 “わかる”ということ
専門学芸調査員 鈴木 雄馬
2014.08
「どうして美術だけ“理解”しようとするのか」と、パブロ・ピカソが言ったそうです。空一面を真っ赤に染める夕日や梢に響き渡る鳥のさえずりは、それが何であるかを理解できなくてもただそれだけで「美しい」と感じるのに、美術作品を前にすると人は「これは何を意味しているのか」「どうしてこんなものを描いたのか」と理解しようとする。なるほど確かに、ピカソの言う通りかもしれません。ただ、それは同時に「どうして美術は“理解”できないのか」ということでもあります。誰もが「どうして」と考える必要もないほどわかり易ければ何の問題もない訳ですから。ではなぜ、美術はわかりにくいのか。。。
その答えは、作品を“作る側”の気持ちになってみると少し見えてくるかもしれません。例えば自分が作った作品について「これは何をあらわしているの?」「どうしてこの色を使ったの?」と様々な質問をぶつけられた時、その全てに明確に答えられるでしょうか。おそらく、自分でもはっきりと理由がわからず「何となくこうしました」と答えるしかないこともあるでしょう。つまり、作品の中には作った本人すら理解できていないものも含まれているということです。更に言うと、作品は一つの結果ではありますが、それは作者がたどり着いた一つの“答え”ではなく、むしろそれを作る過程でたどった無数の“迷い”や自らに向けた“問いかけ”の塊とも言えるのです。
そう考えてみると、美術作品を前にして“理解したい”と思ってしまうこと、そして“理解できない”と感じてしまうことは、ごく当たり前のことだと言えます。(作品自体に問いが含まれているのだから、そりゃ答えを探してしまいますし、作った本人がわからないのだから、そりゃ他人にわかるはずなどない、と言うより、そもそも“答えが用意されていない問い”だということなのです。)むしろ問題なのは「答えを人に求める」ことであり、「わかったつもりになる」ということです。最初のピカソの言葉にはある種の苛立ちが含まれている訳ですが、それは「自分だってまだ必死で考えているところなのに、答えを教えてくれって何だよそれ!」ということなのでしょう。
と、ここまで言っておいて何ですが、美術館に勤めて頻繁にお客様に対して作品の“解説”をしている立場として、こんなこと言っていていいのかな、と思うところもあります。。。ただ、“作る側”のはしくれでもある自分としてはやはりそう考えますし、そういう考え方は“作る人”への敬意であり“見る人”としての誠意でもあるように思います。堂々と「よくわからん」と言えること、その上で「けどなんかいいよね」と言えること、それが本当の意味でその作品を“わかる”ということなのかもしれない、そう思うのです。