岩手県立美術館

vol.44 地震の印象

主任専門学芸員 根本亮子
2014.02

萬鐵五郎《地震の印象》1924年

 萬鐵五郎が1924年に描いた《地震の印象》という油絵は、私が最も好きな萬作品のひとつです。作品名から明らかなように、これは萬が前年に経験した関東大震災がテーマで、当時茅ケ崎に住んでいた彼の自宅近くの風景が描かれています。左の白い塔は測候所、右側後方の傾いた屋根は結核療養所の南湖院の建物と思われます。
 最初にこの作品に興味を惹かれたのは、油絵なのに動きを感じられるという面白さからでした。ぐらんぐらんと揺れる建物、山、大地。地面の揺れに弾かれたように、ぽーんと空高く飛ばされてしまった人間。実際にアニメ化したらこう動くだろう、ということが想像できて、なんともコミカルで楽しい絵だなあと思っていました。

 そんな呑気な見方が一変したのは、東日本大震災で巨大な地震を実際に経験してからです。いつまでも続く揺れのなか、このまま世界が終ってしまうのかもしれないと、今となっては大げさな考えが頭をよぎったほど、恐ろしい思いをしたのを覚えています。関東大震災で萬がどれほどの揺れを経験したのか、詳しくは知りません。ただ、多くの家屋が倒壊し、茅ケ崎の地形が変わってしまうほどの激しい地震です。彼が恐怖を感じなかったはずはありません。また、地震の後、萬をはじめ当時の人々が元の生活を取り戻すまでには、多くの苦難があったに違いないことも、今なら容易に想像がつきます。

 そうした状況を経て描かれた《地震の印象》を、楽しい絵だとはさすがに思えなくなりました。でも、この作品と、これを描いた萬鐵五郎という画家に対する関心はさらに深まりました。《地震の印象》は、巨大地震という強烈な体験を何らかの形で遺したいとの思いがあってこそ描かれたと考えられますが、ここに描かれているのは地震で揺れている風景、というよりは地震の“揺れ”そのものであり、萬自身の感情や被災地の状況、決して明るくはなかったであろう震災後の時代の雰囲気などは一切感じられません。関東大震災をテーマとした作品は沢山あっても、このような視点で描かれたものが、果たして他にあったでしょうか。しかも制作は震災からわずか1年後。その冷徹で達観的な態度には一種の戦慄すら覚えます。萬はなんでこのような絵を描いたのだろうと、見ればみるほど考えさせられます。

 とはいえ、萬が周囲に無関心な、非人間的な性格の持ち主だったかといえば、決してそんなことはありません。萬が地震直後にとった行動について、ご家族の興味深い証言を紹介します。

 「大正十二年九月一日、関東一帯を襲った彼の大震災の時など、激震が去るや間髪を入れず揺れ傾いて壁の落ちた家の中に、脱兎の如く走り込んで持ち出して来たものは、何と御櫃(おひつ)であった。これは時分であった故もあろうが、訳も分らずに只々驚きあわてて居る子供等に、腹をへらせては不憫と思ふ親心であった。事実時間の経過するに従ひ、冷静を取り戻すにつれ、誰しもが気付いたのはこの食事のことであったやうである。此の時父が持ち出してくれた御櫃の御陰で、家人のみならず、近所の人々も此の中の飯米に依って一時を過ごすことが出来、感謝の中にもその機略をほめたたへられたものであった。そして疾風の如く口伝へに伝へられた不安の知らせに依り、数日の屋外生活をする人々に、灯火管制を指導したのも父であった」(萬博輔「父のことども」『萬鐵五郎集』、1954年)

岩手県立美術館

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