岩手県立美術館

vol.33 舟越保武の彫刻

学芸普及課長 大野正勝
2013.03

舟越保武《T嬢》1974年 岩手県立美術館蔵

この美術館のレストランに昼食を取りにゆくと知人に出会い、席をご一緒させていただくことがある。美術作家、マスコミ関係の方、友の会の方、美術館や大学関係者など様々だけれど、相手によって異なる話題に興味は尽きない。多くの場合、自分一人で物事を考えてもその内容はあまり発展しないけれど、相手がいると話は格段に発展するもの。相手の脳裏にはどんなイメージがあって今このことについて話しているのだろうかということを想像する。そんな意識を持ちながら自分もそのことについて考え、新たなイメージを描きながら話している。すると自分一人では思いもよらなかったことを考え話し始め、生き生きとした新たな世界が脳裏に広がっていることに気づく。そんな自分自身を意外に思うけれど、まったく自分のなかに無いものを喋ることはないので、他者が媒介となって、ふだん意識の深いところにしまわれていたものが現れてくるのだろう。

たまたま先日お会いした美術家とランチをご一緒しながら、風景と景色の意味するところの違い、版画のドライポイントの線描と上村松園の後半生の作品に用いられた線描の意味について、美術団体展に出品される作品のこと、茶席で定められた型どおりに作法することの心地よさ、そして舟越保武の彫刻のことなどの話になった。そこでのテーマのようなものは、批判のない何でもありという放任された場で表現される閉じられた自我による私的なものの表現と、その真逆にあるような定められた型に従うことで開かれ経験することができる清新な世界があるという話。そんな会話の後、あらためて舟越保武の彫刻、特に女性像について考えてみた。
舟越保武は清楚で整った顔立ちの女性像を数多く制作した。弊館ではまとまった点数を所蔵していて、それらを目にする機会は多い。そのなかでも石彫によるものは特別な印象を抱く。像の前に立つと、いつも冒しがたい「何か」を静かに発しているように感じられるのだ。そうした女性像を批判的に見る向きもあるようだが、それは的外れだと私は思う。その「何か」がとても重要で、それが舟越保武の芸術を特徴づけているのではないかと思っている。そこには、つい自分中心になりがちな自我意識による私世界というものがほとんど見られない。作品のモデルとなった人物はいても、その人を前にして石を彫り粘土を付けることはしなかった。何度も何度もデッサンを繰り返し、自分の中にモデルとする人物の面立ちなり特徴が充分に入り込んで形成され、自分のものとなってからモデルなしで制作に取りかかる。モデルの固有性に作品が引きずられたくないためだろう。そうかと言って自分勝手に人物を作り上げる訳ではない。それが舟越保武の制作では重要な点なのだ。
女性像には、はっきりと言葉で言えるようなものではない様々なものが込められている。それは、おそらく幼くして母親を亡くした舟越少年が、幼少の頃から求めても得られなかった母性と女性性とが重ね合された、今ここにはない遠い憧れのようなものかも知れない。そうであれば、モデルが誰かということは却って邪魔になる。しっかりと、しかし優しい眼差しで少し遠くに視線を投げかけている女性像は、特定の誰かではなく、見る人の心に清新なイメージを抱くことができる永遠とも言える女性像であることを舟越は望んだに違いない。さらに、自らの心を震わせる存在であってほしいと密かに願っていたかも知れない。そして自分が世に送り出す女性像は、あの中世ゴシック聖堂などを飾る聖人たちのように、実在する人物の固有性を持たず、見る人の心に伝わるような永遠の愛情を具えていてほしいと。
舟越保武はペンの人でもあった。その著作のなかに、自分は中世ゴシック聖堂を飾る聖人たちを彫る名もなき石工職人のような仕事をしたいと考えていて、生まれてくるのが千年遅かったという主旨のものがあることはよく知られている。これは舟越保武の制作の姿勢というか生き方であって、反面、自分中心になりがちな芸術家の表現や生き方を批判し、芸術が持つ本来の意味や力を、自らの手によって形あるものへと導き出そうとする崇高とも言える願いであろう。あわせて舟越がクリスチャンであったことは、彼が目指した芸術がこの世界でどうしたら受け入れられるのかということを、人の心の面ということにおいて考えることになったのではないだろうか。
私は思う。舟越保武の作品は私的な世界を示すものではない。それとはまったく反対の側にあると言っていい。作品を見る多くの人たちにとって、それぞれの人生のなかで求めても得られなかった永遠にも思われるような大切なものを見つけ感じ取ることができるような導(しるべ)なのではないかと。舟越保武は厳しくも心優しい人であった。そして日本人だった。心にはいつも何か欠落感というものがあったのではないか。欠落感は彼の感性に託された哀しみとなって作品に現れているように見える。舟越保武の女性像たちが微かに哀しみの表情を湛えているのはそのためではないかと思えてならない。冒しがたい「何か」とは、哀しみの表情の向こうにある慈愛に満ちた一瞬のそして永遠の愛情なのだろう。

岩手県立美術館

所在地
〒020-0866
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電話
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休館日
月曜日(ただし月曜日が祝日、振替休日の場合は開館し、直後の平日に休館)
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