vol.23 松本竣介展で思ったこと
館長 原田 光
2012.5
松本竣介《Y市の橋》1944年2月
先頃の読売新聞に、松本竣介展の評がのり、横並びにして、《Y市の橋》に描かれた横浜駅脇の跨線橋が解体されるという記事がでたらしい。らしいなどと書くのは、記事のほうだけコピーをもらって読んだからだ。絵で見ると、手前にかかっているのを月見橋といって、これは今もある。その橋にかぶさったような、柱と線と階段でできた不思議な構造物が跨線橋である。何度も僕はこのあたりを歩いたが、どんなふうに見ても、絵のような見え方はしない。
松本竣介《Y市の橋》1944年頃
70年も前の戦中の風景が今に残っているわけがない。そうもいえるが、それより何より、この変な構造の跨線橋は、竣介が絵としておもしろくこしらえたものだからだ。それにしても、横浜駅脇のこのあたり、大都市の裏側の寂しさを漂わせていて、僕は好きだが、跨線橋が消え、やがて月見橋が消え、高層のビルが建ち、結局はまたしても、裏をもたない表ばかりの心ない現代の街に変わっていってしまうのだろう。
《Y市の橋》も遠ざかりけり。そんなため息をはくつもりはなくて、竣介が東京や横浜の人通りのない裏さびれた街をしきりと歩きだし、胸にしみる静かな風景画をつぎつぎと描いたときが、軍国日本のけたたましくて断末魔じみた戦争のときだったいうことがどういうことなのだったか、あれこれと考え、今度の竣介展でまた考えて、ふと思ったことをちょっと書いておきたいのである。《Y市の橋》もその内の一点である。
今度の展覧会には工夫がこらされていて、昭和16年頃からの油絵の風景のそれぞれに、たくさんのデッサンをつき添わせている。よく見ると、スケッチからデッサンへ、デッサンから下絵へと、繰り返して描き直し、下絵を移して油絵を描いてゆく筋道をたどることができる。これはすごいことだと思う。なぜかというと、竣介が歩行をとめ、気にいった場所をスケッチしたときの、そこでの気分を、わざと消し去ってしまうための描き直しなのだから。一時の深い思いいれから絵を遠ざけているのではないか。画家ではなく設計家のように、デッサンではなく図面のように、竣介は自分の仕事をしむけていっている。
図面描きであろうとすること、主観を取りのぞこうとすること、これは一つの思想とか倫理とかと同等であって、国家の規模で押し寄せてくる戦争の思想にじっと耐えていくための身がまえではなかったろうか。大袈裟すぎるとしたら、こうもいえる。小さな風景画の一点を描くのに、これだけの手間と時間をかけたのは、たった一人でアトリエにいて、あえて長い仕事にこもりきることが一番に楽しくて嬉しかったからだ。これもやはり、戦争に耐えるための身の持ち方というものだろう。しかし、そうやって仕上がってくる絵の、なんと深い孤独の表現であることか。主観の透徹であることか。不思議だなあと思う。
僕は竣介が好きである。