萬鐵五郎
よろず てつごろう【1885-1927】
明治18年(1885)11月17日、岩手県土沢(現花巻市東和町)に回送問屋を営む萬八十次郎の長男として生まれる。14歳のころ日本画を独習する。16歳のころ、大下藤次郎著の『水彩画の栞』を購読し、水彩画を始め、画家を志すようになる。36年従兄弟とともに上京し、早稲田中学校3年に編入学する。
37年宗活禅師の谷中両忘庵に参禅。38年本郷菊坂の白馬会第二研究所に通い始める。39年中学卒業後、宗活禅師一行の布教活動に加わり、アメリカへ渡るが、同年中に帰国。40年東京美術学校西洋画科予備科に入学する。42年浜田よ志と結婚する。44年平井為成、山下鐵之助らの同級生とアブサント会を結成する。
45年東京美術学校西洋画科本科を卒業。卒業制作の《裸体美人》が話題をよぶ。本作は、日本フォーヴィスムの先駆的作品と位置付けられる。同年、斎藤与里、岸田劉生らのフュウザン会に参加。第1回展に《女の顔(ボアの女)》等を出品。同会は翌年解散。このころ、同時代のヨーロッパの前衛美術の動向に感応し、実験的な作品を描く。
大正3年土沢へ帰郷。制作に専念する。この時期は、キュビスムの造形言語を手がかりに、自画像、静物画、風景画を数多く描き、独自の表現を模索した。5年再び上京。6年第4回二科展に《もたれて立つ人》《静物(筆立てのある静物)》を発表。大きな反響を呼ぶ。この時期、日本美術家協会展、院展洋画部などに 精力的に作品を発表する。
8年過労と睡眠不足から強度の神経衰弱症となり、神奈川県茅ヶ崎へ転居療養する。第6回二科展に《木の間から見下した町》等4点を出品し、二科会会友となる。10年第3回帝展に《水浴する三人の女》を出品するが落選。このころから南画(文人画)を研究する。11年春陽会創立に客員(のち会員)として参加。日本水彩画会会員となる。12年小林徳三郎らと円鳥会を組織する。会員に、前田寛治、林武、恩地孝四郎らがいた。
晩年の油彩の代表作に《羅布かづく人》(大正14年第3回春陽会展)、《水着姿》(昭和2年第5回春陽会展)などがある。昭和2年、結核に肺炎を併発し、5月1日、茅ヶ崎の自宅で死去、41歳。