松本竣介
まつもと しゅんすけ【1912-1948】
明治45年(1912)4月19日、現在の東京都渋谷区渋谷に生まれる。旧姓佐藤。幼時から岩手県花巻、ついで盛岡で過ごし、大正14年岩手県立盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)へ入学する。同学年に舟越保武がいた。入学の年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになり、昭和4年中学を3年で中退し上京する。
太平洋画会研究所選科へ通い、ここで麻生三郎、寺田政明らと交友。10年第5回NOVA展に出品し同人となり、また第22回二科展に《建物》で初入選する。二科展へは18年まで出品を続け、その間、15年第27回展に《都会》他を出品し特待を受け、《画家の像》(第28回)で会友に推挙される他、《立てる像》(第29回)などを発表した。九室会にも参加、会員となる。11年、結婚して松本姓となり、アトリエを綜合工房と名付け、妻禎子と共に、デッサンとエッセイの月刊誌『雑記帳』を創刊する。16年、美術雑誌『みづゑ』1月号の戦争協力を説く座談会記事に反論し、4月号に「生きてゐる画家」を発表する。同年、盛岡の川徳画廊で舟越保武と二人展を開催する。この頃、舟越保武や澤田哲郎らとたびたびグループ展を開催する。18年には、靉光(あいみつ)、麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成する。同会は第3回展まで開催した。
戦後の21年、「全日本美術家に諮る」の一文を各方面に配付し、美術家組合を提唱し沈滞した美術家の提携再起を促す。22年、新人画会の同人と自由美術家協会に参加する。23年毎日新聞社主催第2回美術団体連合展出品の《彫刻と女》《建物》を制作中に発病し、23年6月8日、東京下落合の自宅で死去した。36歳。